HP立ち上げ初期の思い



 インターネットという言葉が一般化した時期は諸説あると思うが、私なりの解釈で語ろう。一般化の発端は、皆さんよくご存じの日本経済新聞だと思っている。日経は90年代の前半にマルチメディア社会の到来を予測していた。というか、マルチメディア社会が来るということを新聞紙上で語ることで関連株価のつり上げを図っている節があった。私の記憶が正しければ94年以前の話である。驚くべき事に、当時光ファイバーを数年の内に日本の隅々まで行き渡らせるということを喧伝していた。が、光ファイバーが本格的に普及し始めたのは2005年頃になってからである。そのため光ファイバーを敷き詰めてマルチメディア社会を実現するというような当時の記事はどうみても無理が出ていたのだが、突如救世主のような言葉がアメリカからもたらされた。それがインターネットだったのだ。おかげで「光ファイバー」を「インターネット」という言葉に置き換えるだけで、マルチメディア社会実現のつじつまをあわせることができるようになった。94年か95年の3月から日経から光ファイバーという言葉が急に陰を潜め、インターネットという言葉が多用され始めた。この「言葉の遊び」によりインターネットが一般の人たちの知るところとなったと記憶している。時間のある人は図書館へ行って昔の日経縮刷版を見て欲しい。言葉の急激な転換を目の当たりにして笑ってしまうはずだ。

 「インターネット」という言葉をみかけるようになってしばらくしてから、自分にとって衝撃的な写真に遭遇してしまった。それは新聞のようなレイアウトでテキストと画像が同時に表示されていたブラウザの写真だったのだ。左の文を見て「なんのこっちゃ」と思われる方がほとんどだと思うが、当時としては考えられないことだった。「なんでishで変換せずに画像(バイナリデータ)のやりとりが出来るんだ??」、「通信ソフト(ブラウザのこと)でテキストとJPEG画像が同時に表示されるなんて合成写真じゃないのか?」と本気で思ったくらいだ。こんな芸当を行うにはさぞや大変なことだろうと思いつつ、本屋でHTMLとかいう聞き慣れないマクロ言語もどきについて書かれている冊子を手にとって見たところ、意外にも簡単そうであった。パソコン通信とJUNETとの接続実験を除くと、このとき初めてインターネットと出会ったといっていい。
 初めての出会いから半年後、友達の中でパソコン通信からインターネットに切り替える人が出始めた。試しに使わせてもらったところ、またしても衝撃を受けた。企業のみならず個人でもHPが開設していたのである。これがトリガーとなり、また「希少絶版車」という言葉が頭にあったため、漠然ながらもAZ−1のホームページ開設を目的としてパソコン通信からインターネットへ切り替えた。ちなみに当時はプロバイダの選択肢は少なく、iijがすげー高いプロバイダ料金をふっかけていた。bekkoameは死ぬほど遅く、rimネットはアクセスポイントが広島ない。いろいろ検討した結果、当時一番料金が安くレスポンスもよかったasahiネットにした。確か95年の暮れだったと思う。

 当HPを立ち上げるため、既存の自動車関係のHPを参考に見て回ったが、残念ながら失望させられるものばかりだった。例えば自分のペットや日記と車のことをごちゃ混ぜに書いているものが多く、車に特化したようなHPはあまりなかった。存在していても、例えば5W1Hのような構成になっておらず、HPを通じて何を主張したいのか分からないものばかり。また、AZ−1のベンチマークとなるべき旧車達はおしなべていうと相変わらずの状況で、通信手段は手紙と電話。情報は細切れで役にたたず、車を並べてメシを食うことが趣味のあるべき姿。単なる仲良しクラブで、人間関係がいやになったらハイおしまい、といった状況だった。
 「このような愚かしいことをAZ−1で繰り返すべきではない」と思い立って作り上げたのが当HPである。当時可能な限りまっとうな構成のHPを通じて情報の蓄積を図り、全国の誰もがほぼリアルタイムで情報を共有化できるようにする。どう見ても当たり前のことなのだが、当時としては画期的なことだったと自負する。
 この画期的なHPの発展を支えるのは、合理的判断能力を有する人たちである。繰り返しになるが、種々の価値観の違い、好き嫌いを乗り越えて「車をよくするにはどうするか」、「車のために何が出来るか」等本質的な部分を意志決定の判断基準に据える人である。望ましい人材について本格的に触れたのが後述の開設3周年記念一般教書演説であったが、開設計画段階から当HPのあるべき姿・求める人材の方向性はある程度固まっていた。
 当HPの求める人材については開設当時明示しなかった。なぜなら、当HPのような構成を見れば、普通ならアクが強いとか敷居が高いとか、うざいと感じて自動的に逃げていってくれ、十分な抑止力を持っていると考えていたためだ。具体的には、旧車でよく行われているネタのないOFF会はやっても意味がないからやらないとか判断できるということである。実際この作戦は功を奏したくさんの有能な人が集まってくれた。が、どう見ても求められざる人も予想外に集まってしまった。好きだ嫌いだで判断してしまう人たちである(後述)。
 なぜ私がここまで大袈裟というか大上段に構えるのか。それは300〜1200bps時代からやっていたパソコン通信の影響が大きい。時代でいうなら1985年くらいからではなかっただろうか。未だに保管されている5インチ2Dのフロッピー内のログを確認すれば分かるだが、すでに5インチのドライブがない。今では考えられないだろうが当時はローマ字か半角カナで通信しており、漢字なんか使うと文字が化けたりフリーズしたりするから、使ったら非難の嵐になるような時代だった(漢字の使えるパソコンをパソコン通信に使うとはなんと贅沢な、というやっかみもあったと思う)。
 パソコン通信では、PC-VANならSIG、niftyならフォーラムという呼び方で、今で言う掲示板みたいなものが作られていた。その長をSIG OP等と呼んでいたが、SIG OPになるにはわざわざ本社まで出向き面接などをして決定していた。SIG OPになるなどそれはもう大変なことだったのだ。ところがHPでは誰でもSIG OPと同等かそれ以上の操作権限をもつ者になれるようになった。だからこそ、理想と方向性を明確にする等、心してかからねばならなかったのだ。
 当HPを立ち上げたのは1996年6月30日。ホームページという言葉がやっと一般的になりつつある時代だった。技術的には28.8kbpsのモデムが出始め、ネスケの2.0が出始めた頃である。この年Yahoo Japanが稼働し始め、登録されていた自動車関係のHPの数は全部で200を切っていたのではなかったかと思う(現在は3000を超える)。
 HPを実際に制作し始めたのは96年の4月頃からだった。コンテンツは頭の中でイメージ出来ていたので、テキストと画像を入れるなどHTMLを書き上げたのは早かった。律速となったのはトップページにあるAZ−1の絵である。トップページは品位を持たす為、写真ではなくあえて絵にしようと前々から考えてはいた。が、どういった構図にするか決めかねたため、発注が遅くなったのだ。描いてくれたのはロータス23Bも所有する人で、今から15年近く前に旧車ミーティングで素晴らしい絵を描いているのをことを知った。以来、トップページに掲載するのは写真ではなくこの人に書いてもらった絵にしようと決めていた。