野呂山スピードパークの不思議な変遷

 この写真は1974年に撮影された航空写真だ。サーキット閉鎖直後のもので、当時の様子が最もよくわかる写真の1枚であろう。写真は国土変遷アーカイブ空中写真閲覧システム、もしくは国土画像情報から引っ張っている。より詳細な画像を見たい人は、各写真をクリックして欲しい。



 次は1981年に撮影された写真。コースのアスファルトが一部はがされている。閉鎖後の現状回復工事の様子だろうか。それともオフロード用サーキットに改装しようとしていたのだろうか。新たに削られた土地(写真左上)をみると、そうみえなくもない。
 このとき、前頁で紹介したオートキャンプ場の門に繋がる道がサーキット内に造られたことがわかる。恐らく工事車両用なのであろう。従って、前頁で見たオートキャンプ場の門は野呂山スピードパークのメインゲートではなかった。



 不可思議なのは、2009年に撮影された写真である。1981年にアスファルトがはがされた部分が、再度舗装されているのだ。オートキャンプ場に利用するために再舗装した可能性も考えられるが、割に合う話ではないだろう。謎である。



 一連の写真をみておわかりの通り、サーキットが廃墟になると森に飲み込まれてしまうんだ。植林していないのに勝手に木が生える。アスファルト横に生えた木の根が広がっていくことで、どんどんコース幅を狭くしているように見える。



 先ほど少し触れたが、野呂山スピードパークのメインゲートはどこなのだろうか。航空写真をみてみると、矢印の部分になると考えられる。



 メインゲート跡の写真がこれ。現在は門ができている。



 門ごしに撮影すると、道は途中で消えていた。



 家が見えるが、これは当初から建っていた物だ。チケット売り場だったように見える。




 では、野呂山スピードパーク周辺の道をストリートビューで見てみよう。下の写真の右側に写っている門が、先ほど紹介した門であり、旧メインゲートである。
 さらに画面奥に移動していくと、オートキャンプ場の門が見えてくる。


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 サーキットを含め、モータースポーツ関連で共通しているのは、この時代に多くのプロジェクトが立ち上がり、極短命だった点だ。オイルショックとかいろいろ理由はあるのだろうが、あまりにも唐突であるがゆえ、今となっては当事者の見通しが甘すぎたと考えざるを得ない。例えば、コジマKE007しかり、マキF101しかり、童夢しかり・・・
 コジマ、マキ、童夢の話を聞き、野呂山スピードパークの廃墟を目の当たりにすると、過去のモータースポーツを「美化された伝説、果敢な挑戦の結果」として捉えるのではなく、「明らかな失敗談」として捉えるべきなのだろうと思う。そして他山の石としなければ浮かばれない。我々に当てはめると、金銭的・技術的見通しのないまま趣味の車を買い、維持できずにすぐに手放すといった愚行は避けるべきだ。



 「野呂山には遠すぎていけない」という人のために、関東地方に存在する(した?)森に飲み込まれた廃サーキットを見ていく。