当HPの掲げる目的とあるべき姿・求める人材


 「気楽にやっていきましょう」、「やかましいことばかり書きすぎた」と言った舌の根も乾かぬうちに、いきなり固い話から入ってしまって恐縮だが、10年間の振り返りの前に、当HPの掲げる目的やあるべき姿を改めて紹介したい。これを理解した上で次に進むと、目的やあるべき姿の修正を行うために私がとった判断・行動とその根拠、裏話が見て取れるので面白いはずだ。

 当HPの掲げる目的を簡単に言うと「AZ−1の存在をインターネットを使って世界中に知らしめ、かつ、その歴史を編纂し後世に伝える」ことである。またあるべき姿は、「上述の目的の達成を通じて、今までの誤った自動車文化を根底から直し、これからの自動車組織のあり方のモデルケースとなること」である。目的なりあるべき姿を実現するということは、当HPのみが繁栄するなどということでは断じてなく、個々人が進歩の集結がAZ−1を含む自動車趣味も繁栄につながる、という意味である。
 なお「文化」の意味を辞書の受け売りで書くと「真理を求め、常に進歩向上を図る活動」である。「今までの誤った自動車文化」とは、自動車が騒音や公害をまき散らして走っていることを指しているのではない。単に車を並べて喜んでいるという意味のない活動とか、当HPで今まで何度も述べてきた旧車の犯した過ちを指している。
 以上を実現するには、合理的判断能力を有し実行力のある人たちが不可欠である。具体的には、種々の価値観の違い、好き嫌いを乗り越えて「車をよくするにはどうするか」、「車のために何が出来るか」等本質的な部分を意志決定の判断基準に据える人である。

 これから先「本質的」という言葉がたくさん出てくるので、ここで定義しておきたい。逆に説明するのが最も分かりやすいのだが、「本質的でない」とは車自体の進歩・改善、車に関する個々人のレベル向上に無関係なこと全てである。その逆が本質的なことと定義する。
 「合理的」という言葉もたくさん出るが、そもそも自動車趣味とは合理・不合理で片づけられるものなのか、余談として面白い事例を挙げておきたい。月間Charger 2006年6月号から引用すると、現在の雑誌ENGINEの編集長が「クルマ選びは合理的ではないのだから、非合理性をこそ考えるべきだ」との旨の事が書かれていた。この件に関して、なぜ合理的でないのか聞いてみたい。

「俺が不合理だというから不合理なんだ、バカ野郎!」

という返答があったら確かに不合理だと思うがそんな回答が来るとは思えない。「車選びが合理的でない理由は、1・・・・、2・・・だからである」と合理的に(正確に言うと系統立てて)説明するのではないだろうか。そういう説明が出来ないと、通常は編集長みたいな地位まで上り詰めることができないからだ。揚げ足を取っているわけではないのだが、自動車選びとは実は合理的なものと思われる。多少飛躍はあるが、自動車趣味もそうあってしかるべしだ。
 ついでに定義すると「建設的」という言葉も今後出てくる。これは反対意見がある際、文句ばかり言わず、もっとよい方向にすすむと考えられる実行可能な具体策なり今までの事例を挙げ、自ら実行しようとすることである。

 定義を明確にしたいため仰々しいことを書き連ねたが、簡単に言うと、難しく考えないで普通にやりましょうということでありまする。こんなこと、普通の生活でみんな知らず知らずやってることなんだから。