童夢 零、発表時のプレスキット、その1

 童夢 零、発表時のプレスキットが展示されていたので紹介したい。このプレスキットは日本語・英語併記となっているが、日本語の部分のみお送りする。なお、会場が非常に暗く、また三脚使用が禁止となっていたため手ブレを起こした写真が多い点はご勘弁を。







 期待していた皆さんに、のっけから否定的な見解を出してしまって申し訳ないのだが・・・高すぎる理想は理想自体を潰す、という好例だと今となっては感じる。こんな綺麗事が通用するわけがないし、事実そうだ。でなければ量産できている。























 仮にメーカー側が綺麗事を貫き通したとしても、車のオーナーが綺麗事を貫き通すだけの覚悟と技量と継続性がないと、やはり絵に描いた餅に終わってしまう。車が量産されたとしても、それを買ったオーナーは「和製スーパーカーを買ったぞ〜!」と自慢するだけで終わり、メーカーの描いた理想は実現出来なかっただろう。他の旧車や趣味の車のありようを見ればまず間違いない。そういう意味でいうと、途中でぽしゃって童夢の傷口がさらに広がらなかったのが不幸中の幸いといえるかもしれない。

 童夢のプレスキットを読んでつくづく思う。「健全な精神は、健全な肉体に宿る」と日本語訳された諺を、我々は過信しすぎていたのではないだろうか。また現在も盲信しているのではないだろうか。そもそもこの諺は誤訳という説もよく聞く(「健全な精神は健全な肉体に宿ることが望ましい」等が正しい)。
 誤訳された諺を車に例えて言い換えると「素晴らしいオーナーは、素晴らしい車に宿る」とか「素晴らしい自動車文化は、素晴らしい車さえ作っておけば自然発生する」となろう。しかしそんなにうまくいった例は世界的に見ても少ない(というか無いと思う)。誤訳の拡大解釈の蔓延と現状への安住こそ、現在の自動車文化(←とジャーナリストが呼んでいるもの)の底の浅さ、つまり「名車と言われる車に乗ってさえいれば自動車文化をやっている」とか「車の歴史を単に暗記するだけで、得た知識を車の改善に反映させるのではなく、我がことのように語るのが自動車趣味」といったあり方につながっている1つの要因だと思う。
 「健全な精神は、健全な精神を作ろうと努力する過程で生まれる(かもしれない)」が格言として有効なのではないか。つまり「素晴らしい自動車文化は、素晴らしい自動車文化を創ろうと努力する過程の中で生まれる(かもしれない)」となる。AZ−1はそうありたいものだ。

 童夢が理想を貫き通したかったのであれば、オーナーになるであろう人達に対して「お前らも努力せい!」とか「この車を持つのにふさわしい人間だと認められない限り車は売らない」といった押しつけがましいメッセージを、今風に言うなら「上から目線」の文言をプレスキットに書くべきだった。こんな弱腰では大事は成せない。 この文面のままでは「仏(車)作って魂(オーナーの心意気)入れず」だと感じる。